西播磨山城ガイド

地元のナビゲーターとともに山城へ

西播磨には、130を超える山城の他、豊かな自然やおいしい名物がたくさんあります。
それぞれの山城ではガイドがみなさんの旅をより豊かなものにします。
西播磨では「山城イレブン」と名付けて各市町を代表する山城11を選定。
各山城ではみなさんをご案内する「ナビゲーター(ガイド)」がいます。
ガイドの申し込みは準備中でございます。

◆たつの市

龍野古城

播磨一帯を勢力下においていた赤松氏の一族・赤松村秀が15世紀後半頃に、鶏籠山(標高211m)山頂に築城したとされます。以来、政秀、広貞、広英と龍野赤松氏の居城として使われました。1577(天正5)年、羽柴秀吉による播磨侵攻で開城。秀吉の軍門に下ってからは、蜂須賀正勝や福島正則ら秀吉配下の家臣が城主となりました。山頂には城の要となる本丸が築かれ、その傍には城山八幡宮があり、本丸から南の尾根上には、二の丸が築かれていました。野面積みの石垣や土塁、竪堀が残っており、中世山城の雰囲気を漂わせています。江戸時代になると、山麓に龍野城が築城され、廃城となりました。

龍野古城ガイドグループ

山城跡に続く登山道が整備されており、所々に「土塁跡」や進路を示す掲示板があるので初心者でも上りやすい城です。コース沿いには小規模な石積みが散見され、二の丸跡のひらけた削平地へ。さらに登ると、曲輪の土台となった石垣などが姿を見せます。野面積みながら整然としており、重要な建物が建てられたことが想像できます。本丸跡には説明版と石碑が立ち、往時をしのばせてくれます。様々な遺構が比較的良好な状態で各所に残っており、見応え十分です。

城山城

赤松円心の三男・則祐が、亀山(標高458m、たつの市新宮町下野田・馬立、揖西町中垣内)の山頂に築城しました。もともと、この地には、663年の白村江の戦いで敗れた大和朝廷が、唐や新羅の侵攻に備えた古代山城がありました。1441(嘉吉元)年、則祐の孫・満祐が将軍・足利義教を殺害した「嘉吉の乱」では、京から播磨に引き揚げた満祐が追討軍に追われて、城山城で非業の死を遂げました。「嘉吉の乱」での落城後、1538(天文7)年、出雲から播磨に侵攻した尼子晴久が城山城に陣を構えますが、1540(天文9)年に尼子軍は播磨より撤兵し、その後、城山城は使われていません。

城山城ガイドグループ

 

◆相生市

感状山城

 

 

【感状山photo】

築城時期は定かではありませんが、1336(建武3)年、赤松円心の三男・則祐が築いたとの説があります。父・円心が足利尊氏討伐に向かった新田義貞軍を迎え撃つため、円心が白旗山に山城を建造したのに応じて建造したとされ、後に幕府を開いた足利尊氏が則祐に感状を与えたことから、感状山と呼ばれるようになったといわれています。一方で、「播磨古城記」などによると、鎌倉時代に瓜生左衛星門尉が建造したとの記述もあります。相生市矢野町瓜生と森にまたがる感状山(標高301m)の尾根に位置し、石垣や曲輪などの建物跡などが数多く残っています。ただ、その構造から後世に改修されたのではとも考えられ、感状山城は時の権力者に大いに活用され続けたと言えるでしょう。

感状山城ガイドグループ

山頂からは絶景が広がり、眺めも爽快です。
地元の相生市では、道の駅白龍城がおすすめスポット。地域の特産品市場やレストラン、温泉も併設。周辺にはキャンプやバーベキューが楽しめる羅漢の里もありますよ。

◆宍粟市

篠ノ丸城

最上山(標高324m、宍粟市山崎町横須ほか)を登った先、通称・一本松と呼ばれる場所にあり、約3.5㎞北西に位置する長水城の支城としての役割を果たし、長水城と同様、宇野氏が居城していました。文和年間(1352~1356年)、赤松円心の次男・貞範が築いたと伝えられますが、その子・顕則の頃ともいわれています。円心の叔父・釜内範春が山岳陣地を築いていたともされ、定かではありません。三木城を攻略した羽柴秀吉により1580(天正8)年、播磨攻めの総仕上げとして攻め落とされました。播磨における戦国時代の終焉です。その戦いに黒田官兵衛が参加、宍粟郡を与えられて篠ノ丸城に居城したのではと推測されますが、確かなことは分かっていません。本丸跡には石碑が立ち、二の曲輪、三の曲輪、土塁跡などが残されています。

長水城

 

南北朝時代に播磨守護・赤松則祐が長水山(標高584m、宍粟市山崎町五十波ほか)に築いたとされ、「嘉吉の乱」以降は赤松政則が一門の名家・宇野氏を城主に任じました。宇野氏は宍粟郡周辺にも支配を広げ、龍野赤松氏と並ぶ地域領主に成長。数多くの配下を従え、長水城を中心にして各地に城郭を造らせました。羽柴秀吉の播磨攻めの際には最後まで抵抗しましたが、1580(天正8)年に落城しました。山城は、山頂の本丸を中心に、三方に延びる尾根に曲輪が築かれ、山麓には平時の居館跡が残っており、西播磨にその名を轟かせた宇野氏にふさわしい堅固な山城です。本丸跡には、宇野氏の家臣の菩提を弔うため日蓮宗信徳寺が建立され、宇野氏の一族郎党の供養塔も残されています。中世山城にしては珍しい高石垣が残っています。

篠ノ丸・長水城ガイドグループ

篠ノ丸城は、典型的な中世山城。最上山もみじ山の頂上にあり、秋には紅葉を楽しみながら登頂できます。325mで登山道も整備されているため、初心者でもの登りやすいコースです。宍粟の酒蔵通りまちあるきとともに楽しむことができます。
長水城は登山中級者向けの山城。今もなお残る石垣は必見です。

 

◆上郡町

白旗城

鎌倉幕府を打倒しながらも、赤松円心は「建武の新政」下で後醍醐天皇に疎まれたことから、処遇に不満を持ち反旗を翻した足利尊氏に味方することに。しかし、尊氏は京で敗れて西へ敗走。円心は、九州に落ち延びて捲土重来を期すよう尊氏に策を授けました。1336(建武3)年、尊氏を追撃するため、新田義貞は6万の大軍を率いて、播磨に進撃します。赤松円心は白旗山(標高440m)の山頂に白旗城を築き、わずか2千の手勢で立てこもり、50日以上にわたって新田軍に抵抗。その間、円心は三男・則祐らを九州に派遣して尊氏に援軍を依頼し、大軍を率いた尊氏が東進を始めたため、新田軍はやむなく京に引き返しました。白旗城の攻防戦は、再起を期した尊氏の反転攻勢の原動力になった戦いと言えます。その後も、白旗城は赤松氏の中核拠点として固守された難攻不落の名城です。この史実にならい、「落ちない城・白旗城」として受験生らに、合格祈願の絵馬奉納などを通じて地域の活性化に取り組んでいます。

白旗城ガイドグループ

「落ちない城」と言われた白旗城は赤松氏の中核拠点です。この城の他にも上郡町を中心に「上郡アルプス」と言われる山々があります。「天然の要害」としても知られており、登るにはトレッキングシューズがお勧め。合格祈願絵馬は、上郡町観光案内所や赤松公民館、白旗山麓(赤松登山口)で入手でき、河野原円心駅、白旗山麓、山頂の3か所に絵馬掛け所が設置されています。

◆佐用町 

利神城

南北朝時代の1349(貞和5)年、白旗城の北の守りの要として、赤松一族の別所敦範が利神山(373m佐用町平福)に築城したとされます。江戸初期になると、姫路城主となった池田輝政の甥・由之が利神城の城主になります。現存しているのは、1601(慶長6)年から由之による5年の歳月をかけた大改修の名残で、東西200m、南北350mの総石垣造り。高さ10m近くの長大な石垣を築造しています。その際、三重の天守なども築かれたとされ、空に高くそびえる姿から、別名「雲突城」ともいわれています。これを見た輝政は、その堅牢さに驚き、天守の破却を命じたという伝承が残されています。徳川幕府の警戒を恐れたためといわれています。

利神城ガイドグループ

今は、ガイドとともにしか登城することができない利神城。三の丸から見上げる天守は、「マチュピチュ」を思わせるものです。山頂の城跡は登らなくても周辺からはっきり見え、なかでも朝霧に浮かぶ姿は幻想的です。城下町だった平福は、因幡街道の宿場町として栄え、古い町並みが現存します。

上月城

 

南北朝時代初期の1336(建武3)年、赤松氏の一族・上月景盛の築城。通説では、もとは谷を挟んだ北側にある太平山(標高280m)に築きましたが、現在の荒神山(標高194m、佐用町上月)に移したとされます。播磨・備前・美作の三国境に位置したことから、山名、尼子氏らの勢力争いにさらされ赤松氏が城主だった1577(天正5)年には羽柴秀吉の「播磨攻め」で落城。この時の秀吉軍による攻めは、城内の人間を皆殺しにするという凄惨なものでした。翌年、秀吉から城を任されていた尼子勝久は毛利輝元の大軍に包囲され、自刃。やがて上月城は戦略的価値を失い、廃城となりました。

上月城ガイドグループ

 

登山口は、上月歴史資料館が目印。皆田和紙伝統工芸館には、手すき和紙の工房があります。登山道は整備され、短時間で登れるので初心者にはお勧めです。

◆赤穂市 

尼子山城

赤穂市坂越下高野にある標高約250mの山塊。古くから山城跡とされ、尼子山と呼ばれています。「赤松家播備作城記」によると、尼子義久が居城していましたが、天文年間(1532~1555年)に落城したとされます。「播州赤穂郡志」では、1563(永禄6)年に尼子義久が毛利元就に攻め落とされ、その後、赤松氏一族の富田采女が修復しましたが、秀吉に攻められて落城したとされています。毛利軍の城攻めに際しては、尼子義久を攻めあぐねていましたが、麓の集落に暮らす老婆が毛利軍に抜け道を教えたため、落城したとの言い伝えが残っています。江戸時代には山頂に祇園社が祀られ、雨乞いが行われていたことから、「雨乞山」と呼ばれていたとされます。

茶臼山城・坂越浦城

京都・東寺に伝わる中世の古文書「東寺百合文書」(「播磨国矢野庄供僧方年貢等算用状」)によると、1454(享徳3)年に「坂越浦城」「坂越城」と書かれており、この頃、築城が始まったと思われます。「赤松家播備作城記」でも「坂越城」として記されています。また、龍野城主だった赤松村秀は、坂越浦城を通城にしていたとの記述が「播磨鑑」「播州赤穂郡志」にあります。今は公園として整備され、当時の面影はありません。江戸時代には赤穂藩の番所が城址に置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていたといわれています。坂越浦城の背後に控える茶臼山(標高約160m)山頂にあったのが、茶臼山城です。「赤穂郡誌」には、「嘉吉の乱」で播磨国守護・赤松満祐を滅ぼした山名持豊が、赤松氏の残党に備えるために築城、しばらく駐在したと記されていますが、ほかの文献の記述と矛盾があり、実態は不明です。

赤穂山城ガイドグループ

高野集落の民家横に「尼子山城跡登山口」の標柱があります。そこから見落としてしまうような細い道を登っていきます。7合目付近からは岩がちな道が続き、石鳥居が立っています。山頂には尼子神社の拝殿と「尼子岩」と呼ばれる巨岩があり、戦のときに落とすつもりだったとの伝説が残っています、巨岩の上から瀬戸内海の絶景が望めますよ。

◆太子町

楯岩城

建武年間(1334~1338年)に赤松円心の長男・範資の子、則弘が城山(標高250m、太子町上太田)に築城しました。巨岩が楯のように並んでいることから、名付けられたとされます。城山の麓部分には、太子龍野バイパスの城山トンネルが通っています。山城は「嘉吉の乱」でいったん落ちましたが、後に円心の次男・貞範の曽孫、貞村から5代にわたって居住。羽柴秀吉による播磨攻めで、落城しました。山頂の本丸跡には、テレビ塔が立っています。南と西北に延びる尾根に沿って二の丸、三の丸などの遺構が残っており、かなり大規模な山城だったことが伺えます。本丸跡は開けており、江戸時代は旗振りや狼煙(のろし)の中継所だったそうです。

山城での注意

山城は「山登り」と同じです。
ここで紹介している山城はガイドや地元の方が整備をされており安全ですが、
それでも夏にはヤマビルやダニなどがいます。
服装や持ち物などには十分に気をつけてください。

「山城ウォークに出かけよう!~山歩きでの注意ポイント~」パンフレットについて